「風の歌を聴け」には20代で学ぶべき哲学が書いてある

「風の歌を聴け」には20代で学ぶべき哲学が書いてある気がする

風の歌を聴け|村上春樹 著

僕がこの本を初めて読んだのは19歳の時で、最近32歳の誕生日を迎えた。
「風の歌を聴け」は村上春樹さんの処女作で、10年以上何度も読み返している僕が大好きな作品だ。
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○ あらすじ

ストーリーは29歳になった主人公の「僕」が21歳の時を語る。
1970年8月8日から8月26日の18日間を回想し、過去の自分の話、友人の「鼠」とのエピソード、過去に寝た3人の女性とのエピソード、行きつけのバーで出会った小指が無い女性とのエピソード等を語る。
まるで、映画のカメラワークのように章が変わるごとに、シーンが変わり、個々のエピソードが語られる。

以下、ややこしくなるので、
  • 僕→この記事の筆者
  • 「僕」→風の歌を聴けの主人公
とします。

○ 感想

 
この小説で特に印象的なのは友人の「鼠」とのエピソードだ。
いろんなことを考えながら50年生きるのは、はっきり言って何も考えずに5千年生きるよりずっと疲れる。そうだろ?
20代の頃の僕は鼠のセリフに深く共感した。
だけど、32歳になった僕はこのセリフに少し青臭さを感じた。
 
人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。
強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。
 
自分で言うのも何だけど、20代の頃の僕は真面目で責任感がある人間だった。
だけど、少し考えすぎるきらいがあったのだと思う、僕は29歳の時に体調を崩してしまった。
頑張ることは正しい事だ。
家族のために自分が傷つく事は決して間違っていないと思う。
 
あらためてこの本を読み直した32歳になった僕は「僕」のセリフに深く共感した。
強い人間なんていない、そして僕はその中でも弱い人間だった。
このセリフに共感できるのは、体調崩してまで無理をする事は間違っている事だと身を持って知ったからだと思う。
 
完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
偶然に知り合ったある作家
 
このセリフは作品の冒頭で「僕」に対して偶然知り合った小説家が「僕」に対して言った言葉だ。
19歳の僕はまあそんなものかと思った。
だけど、32歳の僕は「完璧な文章」と「完璧な絶望」を対比させている理由は何故なのか、疑問に思った。
 
一般的な解釈で「絶望」とは可能性が全く無い状態の事を指すと思う。
いわば詰んでいる状態だ。
どんな手を使っても、どんなに頑張っても結局はダメ、行動を起こす前にダメな事が分かっている状態、それが絶望だ。
 
結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みに過ぎないからだ。
と、「僕」は語っているから、完璧な文章が完成してしまうと、自己療養の試みが行えないわけだから、「僕」は完璧な絶望に陥ってしまうという事になる。
だから、完璧な文章が存在しないという事は可能性に満ちているという事なのだろう。

○ まとめ

僕がこの本を初めて読んだのは19歳の時だ。
作品に登場する主人公の「僕」は現在29歳で、そして僕は32歳になった。
追い越してしまった。
僕が「風の歌を聴け」に惹かれる理由は「僕」と鼠の会話の中には20代で学ぶべき哲学が書いてあるからだと思う。
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